茶道・薫物(香道)の
歴史を探究する

平安茶道の起源を知る

「『お茶』とは何ですか?」と問われたら、多くの人がまず思い浮かべるのは「定番の飲み物」というイメージではないでしょうか。

しかし実は、お茶は庶民の飲み物としてではなく高級な薬として持ち込まれたのが日本におけるお茶の始まりでした。

歴史上初めてお茶が登場するのは、中国の「神農(しんのう、農業・漢方の祖)」の逸話からとなっています。この伝説から、お茶の発見は紀元前2700年頃だと考えられています。

中国発祥のお茶が日本に伝わったのは、奈良~平安時代。遣隋使や留学僧によって日本国内に持ち込まれました。このときのお茶は現在広く飲み物として嗜まれているようなものではなく、「団茶」と呼ばれる蒸したお茶の葉を丸く団子状にまとめたもので、薬や漢方として活用されました。基本的にはそのまま「食べる」ものであり、「飲む」場合は飲み物としてごくごくと飲むのではなく、薬として必要な分だけを茶臼などで粉状にし、煮出して飲んでいました。

団茶は、今で言うところの烏龍茶のような半発酵茶だったと考えられます。そのため、色は緑色ではありませんでした。「茶色」という言葉が表す色が現代の私たちが想像するお茶の緑色ではないのは、日本に持ち込まれた当初のお茶の色に由来しているからなのです。

そんな形や色から想像がつくように、団茶の味はとても渋く、決して美味しいとは言えないものだったそうです。

とはいえ、薬としてのお茶は決して誰でも手に入れられるものではなく、貴族や僧侶といった限られた上流階級の人々のみが口にできる高級品という位置づけでした。

しかし、平安時代初期の頃になると、お茶のあり方が変化していきます。

西暦815年に記された『日本後期』には「嵯峨天皇に大僧都永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記されています。これは、日本最初の「喫茶」を示す記述であると言われています。というのも、「煎じて奉った」という記述から、このときのお茶は「煎茶法」、つまり茶を煎じて飲む喫茶の方法によって淹れたものではないかと推察できるからです。

このことから、嵯峨天皇の時代にお茶のあり方が薬として服用されるものから喫茶として嗜むものへと変わっていったことが分かります。

とはいえ、あり方が変化しても価値は変わらず、お茶はごく限られた人々しか口にすることはできない高級な代物でした。