茶道・薫物(香道)の
歴史を探究する

平安時代の学校教育

平安時代、貴族の男児たちは「大学」に通い、勉学に励んでいたことをご存じでしょうか。

大学と言っても、現代に存在する高等教育機関の大学とは別物です。701年の大宝律令で定めによって、役人を育成するための学校として政治の中心地である京都には「大学」という官立の教育機関が設立されました。大学の学生たちは基本的に学内の寄宿舎である「大学寮」で暮らし、そこで授業を受けていました。

時期によって大学に設置されていた教科は変遷しますが、主に国の法律を学ぶ「明法道」、経済を学ぶ「明経道」、歴史や漢詩文を学ぶ「文章道」、現在の数学にあたる「算道」の4つが設置されていました。他にも儒学や音楽、陰陽道などを学ぶ寮もあったようです。

大学では試験も実施され、最終試験に合格すると国家試験を受けました。この国家試験は大変重要なもので、試験の成績によってその後に就く役人としての位が決まりました。

義務教育制度があり誰もが「学校」に通う現代とは違い、平安時代に学校へ通うことができたのは一握りの貴族の子供、それも男の子のみでした。将来の役人を育てるという目的でつくられた機関ですから、役人になれることが決まっている家柄の子供たちのための場所だったのです。そのため、上流貴族の男児と、一定の階級の志望する中級貴族の男児だけが大学に入学できました。一方で、藤原氏などの有力貴族は「大学別曹(だいがくべっそう)」という私立学校を設け、子弟教育を行っていました。また、地方には「国学」が置かれ、地方官僚の育成はそれぞれの「国」で行われていたようです。

そもそも、平安時代においては基本的な読み書きができるのも上流階級の人々に限られていたのです。読み書きを学ぶことは「手習(てならい)」と呼ばれ、学校教育とは別に各家庭で行われていました。

平安時代の学校はあくまで役人を育てるための場所であり、学びたいという意欲のある人が誰でも自由に入学を希望できるようなところではありませんでした。日本において現代につながる教育制度が始まったのは、明治時代初期の話。学びたい人が学ぶことを目的に学校に通える時代に生まれたことに、改めて感謝したいですね。