茶道・薫物(香道)の
歴史を探究する

平安時代の人形遊び「ひいな遊び」

平安時代、貴族の子供たちはよく人形を使ったごっこ遊びをしていました。そんな人形遊びのことを「ひいな遊び」と呼びます。

「ひいな」「人形」と言うと雛祭りのひな人形を連想するかもしれません。しかし、現代の雛人形と当時子どもたちが遊ぶために使っていた人形は、少々違うものでした。

平安時代の貴族の子供たちは、それぞれお手製の「ひいな」と呼ばれる手作りの人形に、着物を着せて着飾ったり、調度を整えておままごとをしたりして遊んでいました。

ひいなは、紙や藁などで作られた小型の人形です。また、人形散っても手足を広げた形が人の形に似ているだけの単純なつくりでした。そう聞くとずいぶん素朴な玩具に聞こえるかもしれませんが、当時紙は高級品であったため、紙で出来たひいなはとても高級なものでした。故に、ひいな遊びは高級品が手に入る貴族の家の子どもの遊びだったのです。

このひいな遊びは、『源氏物語』の中にも頻繁に登場しています。そして作中の描写から、ひいな遊びはあくまで子供の遊びであったことが分かります。

『源氏物語』の中には「紫の君が『ひいなあそび』をしているのを見掛けた女官が呆れて、紫の君はもう『ひいなあそび』をする年齢ではないのに未だやっていらっしゃると言った」という場面があります。この場面の紫の君は10歳を少し過ぎた頃で、平安時代では10歳になると成人の扱いを受けることが普通でした。このことから、ひいな遊びはあくまで幼い子供の遊びであり、10歳を超えた「おとな」がいつまでもひいなで遊ぶことは恥ずかしいことだという認識だった、ということが読み取れますね。現代と変わらず、女の子を中心とした子供の遊びだったようです。そこから転じて、小さくてかわいいものや、薄れていく幼い頃の思い出を「ひいなのよう」と表現したともされています。

さて、冒頭でも述べたように、現代の感覚からすると「ひいな遊び」は「雛祭り」と近い文化なのでは? と想像できますが、この二つに繋がりがあるかどうかは諸説あるようです。

少なくとも平安時代の3月3日、上巳の節句には人形を飾る習慣はありませんでした。代わりに、不浄を祓うために「ひとがた」に穢れを移して水に流す行事が行われていたと言われています。この「ひとがた」と「ひいな」が時を経るにつれ同じ「人形」として同一視されていき、室町時代になる頃には人形が贈り物として豪奢なものを用意するようになり、と、少しずつ現代の雛祭りに近づいていったというのが有力な説のようですが、どれも推測の域を出ません。

しかし何であれ、平安時代も現代も子どもたちは人形遊びに興じるという共通点があることは事実です。子供の遊びは今も昔も変わらないものなのですね。