茶道・薫物(香道)の
歴史を探究する

平安貴族の仕事

平安貴族というと、風流な遊びを楽しみながらゆったりと日々を過ごしていたイメージをもたれている方も多いかもしれません。しかし、階級によっては今で言うブラック労働ともとれる、かなり過酷な労働を強いられていた人々もいました。

そもそも、平安時代における貴族とはみな官僚の職を任される者たちであったため、治安維持や経済対策に関する取り組みをといった政治に関する業務を日々行っていました。

そして政治の他に、平安貴族たちにはもう一つ大きな仕事がありました。それは、季節に合わせた催しを開くことです。「催しを開く」と言うと娯楽の一部のようにも聞こえますが、平安時代において貴族が集まって行う催しは宗教的に大切な意味を持っており、国が主導で取り仕切って実施される公的な行事でした。そんな催しを円滑に進めるための運営こそ、平安貴族の重要な役割でした。

加えて、現代から見れば同じ「平安貴族」と呼ばれる人々でも、その仕事量は属する階級によってかなり違いがありました。

上流貴族ともなれば宮廷に出仕するのは正午を過ぎてからで、1時間から2時間程度の会議に出席するだけで一日の業務が終了する、という日もあったそうです。一方で、下流貴族は貴族としての仕事をこなすと同時に、いわゆる使用人のような仕事も同時にまかなっていました。午前3時とまだ日も昇らないうちに起床せねばならず、そこから着替えや日記をつける時間までが細かに定められたルールに則って生活をしていました。そんな中で宮廷の掃除や警備といった雑務をこなし、さらに官僚として会議にも出席します。時にはその後さらに夜勤を務めることもありました。

このように、下流階級の貴族は厳しいスケジュールのもと日々激務をこなしていたのです。「夜中まで働くとおかしくなる」といった記述が残された、当時の貴族による日記も存在しています。

「平安貴族」と一括りに呼んでも、決して全員が優雅な暮らしをしていたわけではなかったのですね。

一部の上流階級の貴族には教養を高め娯楽を嗜む時間もあったのでしょうが、日々仕事に追われていた下流貴族たちの生活の中には、現代の我々が想像する「貴族らしい時間」など、実はなかったのかもしれません。